「生ける神に立ち帰るように」 06.03.12
使徒言行録14:8〜18
リストラの町にいた足の不自由だった人が、伝道のために
やってきたパウロが語る福音を、熱心に聴いていました。
パウロは、その人を見て、いやされる(救われる)のに
ふさわしい信仰があるのを認めます。 いやされ、救われる
のにふさわしい信仰というのは、どんなものだったの
でしょうか。
その人は、ずっと座ったままの人でした。何か大きな
ことが出来た人ではありませんし、特別のことをした人でも
ありませんでした。
彼は、ただ福音を聞き、そこで語られているイエス・キリストに
よって救われるとの言葉を信じ、受け入れただけです。
イエスさまによって与えられる救いにあずかりたいと求めた
だけです。
特別なことをしていたのではありませんでした。聖書は、
ただイエスさまを信じ受け入れただけの人のことを、「救いに
ふさわしい信仰がある」と語るのです。
これは、私たちにとっての大きな慰めであり、希望の出来事
です。私たちは、自分の能力のあるなしや、働きの大小が気に
なって仕方のないときがありますが、 そこに心を奪われ、
救いの確信を見失う必要はありません。
町の人々は、足の不自由な人をいやしたパウロたちを、
ギリシャの神々だと勘違いしました。そして、二人に、いけにえを
ささげようとしました。神々に対して、丁重なもてなしをしないと、
災いのときに守ってもらえないと考えたようです。彼らの態度は、
神さまに対する信頼からくるのではなく、恐れや不安からくる
ものでした。
そんな人々に対して「生ける神さまに立ち帰るように」と語られます。
生ける神さまは、人が供え物をしないと守ってくださらない神さまでは
ありません。
すでに、たくさんの恵みを与えてくださり、様々な喜びを与えて
くださった神さまです。
そして、すでにイエスさまによる真の救いを用意してくださった
神さまです。 そこに、喜びと信頼を土台とした信仰生活が生まれます。
「生ける真の神さまと出会い、その神さまのもとで生きなさい」と、
聖書は語りかけてきます。